読書帳

読んだ本の超簡単な紹介・くだらない考察など

川端康成『雪国』

『昭和史』もちびちび読みすすめてはいるがさすがに飽きてきたので、今回は割と短めの小説『雪国』について書こうと思う。有名な作品だし、別にとり立てて大好きな小説というわけでもないのだが、毎日理屈や正論ばかりに囲まれて勉強や仕事をしていると、たまにはこういうウットリした作品を読むのも良いものである。

 

 

内容:

正直、起伏のあるストーリーでは全くなく、抽象的な心理描写や風景描写がほとんどなのであらすじが書きにくいのだが、あえて乱暴に書くなら以下のような感じ。

 

・東京に妻子を持つ島村という男が、ある夏、現実逃避のために山奥の村に旅をする。そこで駒子という女と出会い、深い仲になる。冬になり、島村は再び駒子に会いにいくため汽車に乗って村に向かう、というのが冒頭の場面である。

 

・駒子は、もともと踊りで身を立てることを目指し東京に住んでいたこともあったが、ワケありで挫折し、今は村に帰ってきて芸者の手伝いをしている女だった。踊りや音楽の芸術が純粋に好きで、同じく舞踊関係の仕事をしている島村と話が合ったので一気に仲良くなった。島村は、夢中で芸術のことを話す駒子をどこか俯瞰してみていたが、駒子はその日から島村の泊まる宿に何度も来たがるようになった。なお、作品を通して島村と駒子の間の性描写は全くないが、駒子と再会した島村が左手の人差し指を見せて「この指だけが君のことをはっきり覚えていたよ」と言うので、初めて会った時から体の関係はあったことがわかる。ついてに島村が左手で手マンしていたこともわかる。

 

・再会した時には、駒子は「芸者の手伝い」から「芸者」になっていた。実は駒子には幼なじみの行男というのがいて、周囲から結婚を期待されていたが、行男は東京で病気にかかり、その治療費を稼ぐために駒子が芸者になっていた(体を売っていた)。ただ、駒子は行男のことが好きでそうしていたわけではなく、行男の実家に世話になっていたので義理を果たすためにそうしていた。駒子はそういうことも全て島村に打ち明けた。島村も淡々とそれを聞いた。

 

・島村が再び東京へ帰る際、駒子は駅へ見送りに来た。そこへ、行男と親しい葉子という女が駆けつけて、行男が危篤だから駒子さん今すぐ来てと言った。駒子は、これから大事な人を見送りしなきゃいけないから私は行かないと言った。島村は急いで行ってやれと言ったが、駒子は意地でも行かないと言い張ったので、それ以上は島村も何も言わなかった。その後、行男は死んだ。

 

・作中でははっきりとは書かれていないが、おそらく葉子は行男と交際していた。葉子が体調の悪い行男の身の回りを甲斐甲斐しく世話する場面や、行男の墓に葉子が何度もお参りする場面が出てくる。駒子は、行男が死んだことで、行男を一途に世話し続けていた葉子の気が変にならないかと案ずる。また、島村は、葉子と顔を合わせるたび、葉子の痛いほどの純粋さや、行男を誠実に愛さなかった駒子に対する葉子の憎しみを感じ、気まずさもあったが、一方で、その純粋さに妙な魅力も感じる。

 

・そして物語の終盤、葉子のいる建物で火事が起こる。島村は駒子とともに火事の現場に駆けつける。その瞬間、二階から葉子の体が落ちてくるのが見える。駒子は一目散に葉子のもとに走る。「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」という駒子の叫び声が響く。葉子が一命を取り留めたかどうかは明らかになることなく、ここで物語は終わる。

 

 

かんそう:

・おそらく、上記の内容を読んでも何を伝えたい小説なのかよくわからないと思う。オレも、この小説を3回くらい読んだが、話の中に出てくる色んな抽象的な描写が何を表現しているのかよくわからないものが多い。ただ、登場人物間の関係性や心理が妙にリアルに思えることがある。

 

・例えば、駒子は明らかに島村に惚れており、島村もそれを無下にはしないものの、島村が駒子に心から本気になることを示す描写はほとんどなく、ただ駒子が自分を慕ってくれることに対して「君はいい女だね。」と発言し駒子を無性に苛立たせる場面など。面と向かって「いい女だね」と言っているのになぜか突き放してる感が漂うのは、他の女との比較でいい女、というニュアンスが漂うからだろうか。

 

・読書も好きな駒子が、今まで読んできた本のあらすじや登場人物の関係図などを日記に書いてそれが10冊にもなっているんだよ、と島村に話す場面がある。島村は、そんな単純作業を続けたって本の根本的な魅力に気づけるわけではない、ただの徒労だと言う。しかし言った後に島村は、自分から見てそれが徒労だとしても彼女にとってはそれが本を愛する形であり、そもそもロクに仕事を頑張りもせずふらふら旅を続ける自分の人生も同じく徒労ではないかと気づく。往々にして男は「物事の本質」や「人と違うことを考えている自分」なるものにうっとりしがちだけど、日々こなすべき「貯金」や「作業」のようなものを面倒がることが多く、逆にそれを粘り強く続ける女性の純粋さが際立って描かれいるように思う。

 

・ただ、駒子も行男のために芸者になりはしたが、気持ち的には島村に惚れているため行男の死に目には会おうとせず、駒子が一方的に純粋さの象徴として描かれているわけでもない。むしろ純粋なのは葉子の方にも思えるが、駒子が葉子を密かに思いやる場面もちらほら出てくるので、駒子の掴みどころのないキャラクター性がとても難解である。そして、個人的には、この駒子の掴みどころのなさ、あるいは何がその人の本性かなんてそもそも分からないということが作品のの最大のテーマではないかと思う。

 

・実は、冒頭で島村が汽車に乗っている場面で、島村の向かいの席に座る葉子の姿が描かれているのだが(もちろんこの段階でお互いのことはまだ知らない)、この場面の描写がとても象徴的である。汽車の窓に葉子の顔が映って、それを島村が窓の外の風景と重ねて眺める場面の一節。

 

「遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぽうっと大きい感情の流れでもあった。無論それは娘の顔をそのなかに浮かべていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。」

 

この作品はずっと島村目線で描かれているのだが、フラフラと人生を生きる島村にとっては色んなものが幻のように見えている、ということを象徴する表現かと思う。芥川龍之介のように「善悪」や「正しさ」を問う作品を出さず、あまりメッセージ性のないぼんやりとした美しさを描くことが多い川端康成らしさでもあるかも。

 

 

おわり