読書帳

読んだ本の超簡単な紹介・くだらない考察など

宮崎市定『科挙』

手頃な分量で頻繁に更新するという方針は守れそうにない。今回も盛大に自分語りをした結果クソみたいな長文になってしまった。

 

 

内容:

科挙について、国史の研究者が書いた本。

 

科挙は、昔の中国王朝で行われていた壮絶なペーパーテスト地獄のことである。

科挙の目的は、中国皇帝の優秀な手足となる官僚を選抜することにある。そもそも中国王朝では皇帝が全ての人民を支配することになっているが、次第に各地方に有力貴族がのさばるようになり、皇帝による支配が妨げられるようになってしまった。そこで中国全土から皇帝直属の有能な部下たる官僚を選抜し、彼らを手足として各地に派遣することによって皇帝の支配を強化しようという狙いがあった。

 

つまり、それまでの貴族中心の特権階級を政治から排除するため、家柄にかかわらず純粋に賢い奴を選抜する必要があった。そこで、徹底的な公平性のもとに行われるペーパーテストという形が採用された。また、封建制のもとでは一般の人民は商売によって豊かになるのは難しかったが、官僚になれば自分の担当地域で絶大な権力をふるえる様になるので、人民からすれば科挙は出世のために開かれたほぼ唯一の道だった。科挙の最終合格者は「進士」と呼ばれ、自分の故郷にオブジェが立つほど人生最高の栄誉とされた。1回の科挙につき最終合格者は200人~500人程度、合格倍率は時代によって異なるが数百倍から数千倍に達した可能性があるという。

 

試験内容は、主に「四書・五経」と言われる中国の古典から出題される。受験者はその古典を丸暗記する(約43万字)。その中からどれか一部分のフレーズが出題されるので、受験者はその部分の解釈や自分の意見を書いて答える。実際には、頻繁に出題される部分というのがあって、そのヤマ当て予想のようなものも裏で出回っていたようである。

他にも、テーマに合わせてその場で詩を作る問題等も出題される。

 

科挙を受けたければ、まず国立学校に入り、これを卒業することによって科挙の受験資格を得る必要がある。その後、科挙の本番試験を受ける。具体的には以下の通り。

 

①「県試」←学校の入学試験その1

②「府試」←入学試験その2

③「院試」←入学試験その3。これに受かればやっと入学できる。ここまで来るだけでも死ぬほど大変である。なお、入学者は学校を科挙の受験資格を手に入れるための場所としか認識していないので、学校での教育はほとんどロクに行われず、各自で科挙の勉強をしていたらしい(明らかに日本のロースクールと同じ現象である)。

④「郷試」←科挙の本番その1。3日間ぶっ通しの試験を3回(合計9日間)行う。受験者は独房のような部屋に布団や食料を持ち込んで受験する。試験中の食事や睡眠は自由だが、答案用紙を汚損すると採点の対象から外れる。カンペ等の持ち込みや試験官との癒着が発覚したときは、最悪の場合試験官も含めて処刑される。試験場入場の際には係員による身体検査が入念に行われる。カンペ等を発見した係員には国から報酬が支払われるシステムだったので、係員もえげつないほど入念に検査したようである。採点にあたっては、誰の答案かを採点者が特定できてしまうのを防ぐため、答案は全て座席番号のみで管理された。

⑤「会試」←科挙の本番その2。郷試と同じことをまたやる。これに合格すれば進士となり、官僚への道が約束される。

⑥「殿試」←皇帝に直接試験をしてもらえるボーナスステージ。会試合格者の中から審査員によって推薦された上位10人が、皇帝に直接答案を審査され順位をつけてもらう。この順位が高いほどスーパーエリートになれる。ただし順位は完全に皇帝の好みや機嫌で決まる。審査員の意見通りに素直に順位をつける皇帝もいれば、「審査員の言うなりになるのがなんかムカつく」というだけの理由で無駄に順位をいじる皇帝、答案の中身を見ずに顔だけで決める皇帝もおり、せっかくここまで公平に試験をやってきたのに最後にとんでもない不条理が待っているという恐怖のシステム。

 

 

以上が科挙最終合格への道である。

 

科挙制度の評価について、著者は功罪両面を主張する。すなわち、科挙制度が成立したのが西暦587年であり、当時のヨーロッパがまだまだ貴族や教会による支配とらわれていたことからすれば、身分に関係なく全土から人材を選抜する発想自体は先進的で、実際に歴代王朝は広大な中国を長期間にわたり安定的に統治することが可能となった。また、武官よりも文官を圧倒的に重んじ、つねに軍事力を文官のコントロール下に置くという発想の定着にも科挙が大きく寄与した。反面、古典の内容を完璧に暗記することが官僚としての実務能力をどれほど証明するのかは素朴な疑問である。また、そもそも科挙は試験合格者を登用するという究極の省エネ的発想であり、時間とお金をかけて学校教育を充実させることは軽んじられた。近代以降、欧米や日本は様々な新しい技術を習得するために教育の重要性にいち早く気づいたが、中国王朝は科挙を1904年まで続けたため、時間をかけた技術習得の環境が整備されなかったことが近代化の遅れを招いた一因ともいえる。

 

 

 

かんそう:

受験者のことを考えると涙が止まらない。科挙に比べれば現代日本の司法試験などその辺の石ころみたいなものである。

 

とりあえずこの本を読んで思ったのは、現代との比較だ。科挙の合格が成功への唯一の道だったとはいえ、おそらく当時の人々みんながその道を目指していたのではなく、一部の野心家たちが必死に挑んでいたんだろうと思う。では、それ以外の人たちはみんな不幸かといえば、科挙を受けるという発想自体が初めからないのだとすると、むしろ主観的には野心家よりもストレスはなかったんじゃないだろうか。

今の日本はどうだろう。仕事が多様化して、「科挙ほどの苦労はしなくてもよいが、自分の努力次第でそれなりの報酬を得られる職業」が増えた。しかし、選択肢が多すぎると、人は困る。失敗したら自分の責任になるからだ。自分が納得できる仕事ならそれでいいと言い聞かせても、自分が納得できる仕事かどうかなんて働いてみるまでわからないから、怖いのだ。あるいは、今の自分の境遇が悪いのは自分の努力が足りなかったせいじゃないか、自分はどこかで選択を間違ったんじゃないかという不安にも悩みやすいかもしれない。

 

もちろん、自分が納得できる仕事であればそれでいいことには違いない。では、みんなどうやってそれを見つけているんだろうか。あるいは、納得していると自信を持って言える人のほうが少ないんだろうか。そういえば、オレは今までちゃんと世の中の職業について考えたり自己分析をしたことがなかった。

 

(以下、科挙と一切無関係の自分語り)

 

なんとなく、今の世の中の職業は「プレイヤー」と「インフラ」に大別できるんじゃないかと思う。

 

「プレイヤー」は、

例えば、美味しいお菓子を作るメーカー。

例えば、便利なスマホを開発するエンジニア。

例えば、観客を楽しませる映画俳優。

 

彼らはみな、人をハッピーにする。人をハッピーにさせればさせるほど報酬を得ることができる。世間から魅力を感じてもらえなければ仕事にならないが、彼らが頑張ってお金を稼ぐからこそ世間の景気が上向くのだから、彼らこそ経済を回す「プレイヤー」だ。

 

それに対して「インフラ」は、

例えば、病人を治す医者。

例えば、悪人を捕まえる警察官。

例えば、他人の紛争解決を代理する弁護士。

 

彼らはみな、社会にないと困る「インフラ」だ。彼らに発生する報酬は、社会にとっては必要経費であり、それ以上でも以下でもない。たとえ彼らが営利的に活動したとしても(医者や弁護士が広告を打って営業することは普通にある)、その報酬は人々のお悩み解決の対価であり、「仕方なく」支払われるものであることには変わりない。

 

もちろん、「プレイヤー」と「インフラ」のどちらともとれる仕事も多い。例えば、人間にとってトイレは無いと困るので、トイレの便器メーカーは「インフラ」的ともいえるが、すこぶる快適なトイレを開発して人々をハッピーにさせることにより大金を稼ぐ側面をみれば「プレイヤー」的ともいえる。「あれば嬉しいもの」と「無いと困るもの」の区別は曖昧だから、「プレイヤー」と「インフラ」の境目はグラデーションだ。ただやはり、色彩として両極があるということはいえると思う。

 

あるいは、同じ会社の中でも「プレイヤー」的な仕事と「インフラ」的な仕事がある。肝心の商品を作る開発担当やそれを売る営業担当は、彼ら次第で会社の売上がダイレクトに伸びるので「プレイヤー」的だが、会社の環境やお金を管理する総務担当や経理担当は、いないと色々困るという意味で「インフラ」的かもしれない。

 

オレ自身は今、明らかに「インフラ」の方を目指している。(どちらかというと)公務員家族で保守的な親のもとに育ったので、明らかにその影響だ。今目指している仕事に強いやりがいを予感したとか、そんな綺麗な理由はない。いや、ないわけではないが、後付けだ。自分の仕事が人から好かれなくなった瞬間に食い扶持を失う「プレイヤー」になるのが怖いから、とりあえず安定した収入を生み出す専門性がほしくて、なおかつ、どうせなら良さげな資格を取ってやろうと思っただけだ。そして、そのことは何ら不当ではないと思ってきた。

 

ただ、いつ頃からか、「インフラ」に一生閉じこもるのもダサいなと思うようになった。なぜそう思うようになったのか。勉強から逃げる都合の良い言い訳が欲しかっただけかもしれないが、今のところこの道をドロップアウトしようという気もない。むしろ、昔の友人達や先輩・後輩が続々と色んな仕事に就き始めたことが大きかった。メーカー、銀行、教員、自衛官、医者。オレが大学院でタラタラ勉強している間に、彼らはそれぞれの道で仕事をこなし始めた。羨ましい気持ちもあったが、それ以上に彼らの話を聞いて色んな世界のことを想像するのが楽しかった。だから、オレが今目指している仕事にいつか就けたときは、できれば色んな人と交流して仕事がしたいと思うようになった。幸い、性質的にそれができる仕事でもあるから。

 

でも、色んな人と交流するには、度胸が必要だ。人前で恥をかきたくないとか、上品に思われたいということにこだわり過ぎるうちは、きっと人との交流には向いていない。人に名刺を配って歩くことは、ある意味で下品だ。オレにはまだ、そこまでの度胸がない。度胸を問答無用で身につけるためには、競争の世界に身を置かなくてはいけない。決まった仕事をやっていれば毎月同じ日にお金が入るということでは、「インフラ」に閉じこもることになってしまう。

 

オレの親戚は商売をしているが、昔、うちの家族と親戚一同で食事に行ったことがあった。その店は頼みすぎて余った料理のお持ち帰りはNGだったのだが、叔母が店主とかけ合って特別にOKにさせた。叔母は「これが民間の力ですよ」と言って笑っていた。その時は自分の家族が馬鹿にされているようで子どもながらに内心イラっとしたが、今は叔母のようなメンタリティーに惹かれる部分もある。うちの家族にはそんな交渉力はないし、そもそも店にかけ合ってNGをOKにしてもらうという発想がない。それは、閉じた世界で生きてきたからだ。真面目だが、たくましさがない。

 

オレの目指す職種は、少し前の制度改革によって人員が増えすぎたせいで、頑張って資格を取っても就職できるかわからない世界になったと言われるようになった。そこだけを聞くと、インフラ人間としては怖気づいてしまう。ただ、もしかするとそれは、専門性だけではなく度胸やたくましさも獲得するチャンスかもしれない。

 

 

まあ、まずは大前提として専門性がないと話にならない。

そう言い聞かせて勉強するのだが、なんたって覚えたことをすぐ忘れるポンコツ脳だから困るヨ。

 

 

おわり